この天を回らすために。。。大津島(3)
続きです。
~「回天」の理解ありきで書き始めましたが、この時点でも、自身が回天について深く理解に及んでいると言い切れません。
辛うじて得た理解をさらに噛み砕きながら、回天について改めて記したいと思います。
なお、回天は、先の太平洋戦争における艦船攻撃の要、「魚雷」にその原点を持ちます。なので、その成り立ちについて綴ると遠大になるためその部分は省かせていただきます。
前述のごとく、拙く浅学な者が綴ります。なにとぞ、ご寛大にお願い申し上げます。~
人間魚雷 回天は、先の太平洋戦争において、日本海軍が実際に用いた特攻兵器です。
当時の魚雷は、今のように自動的に敵目標へ向かってゆく機能などありませんでした。
こうした従来の魚雷攻撃の限界を打破するため、魚雷に直接人間が乗って敵艦に向かってゆくという構想を、具現化させたものが回天です。
回天の計画は、ミッドウエイ海戦、続くガダルカナル島撤退など、旧日本軍が苦汁を舐めはじめることになる昭和18年の終わりごろ、現場や士官からのボトムアップによりもたらされたといいます。命名は、幕末の軍艦名にあやかったそうですが、「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」意味で用いていたのは、計画提案者の士官だそうです。
設計当初、軍令部は、回天乗員の脱出装置を持たせることを命じますが、構造的難題や急がされる開発に、現場から反対意見が生じ、設計から外されました。
ここで事実上初の、生きて帰ることのない特攻兵器が誕生しました。
そして、こののちの特攻兵器誕生のハードルを下げるきっかけになってしまった。と語る関係研究者もおられるようです。
大津島には、もともと従来型の九三式酸素魚雷の発射試験場があったため、昭和19年9月、回天訓練基地として選ばれ、開隊することとなりました。
搭乗員は、志願、募集によって構成されていました。海軍兵学校・機関学校から志願と人事で集められ、募集は、兵科予備学生・予備生徒、飛行予科練習生を対象に、「一撃必殺の危険な兵器」 的な言い回しで人間魚雷であることは伏せ、大津島開隊1月前に行われました。
実物の回天の前で真実を告げられ、「嫌なら遠慮なく申告しろ」という上官に、誰も「嫌だ」と言わなかった。。。というのは、ドラマの中で描かれますが、きっどには事実は分かりませんでした。
続きます。
文章ばかりになりました。すみません。
~「回天」の理解ありきで書き始めましたが、この時点でも、自身が回天について深く理解に及んでいると言い切れません。
辛うじて得た理解をさらに噛み砕きながら、回天について改めて記したいと思います。
なお、回天は、先の太平洋戦争における艦船攻撃の要、「魚雷」にその原点を持ちます。なので、その成り立ちについて綴ると遠大になるためその部分は省かせていただきます。
前述のごとく、拙く浅学な者が綴ります。なにとぞ、ご寛大にお願い申し上げます。~
人間魚雷 回天は、先の太平洋戦争において、日本海軍が実際に用いた特攻兵器です。
当時の魚雷は、今のように自動的に敵目標へ向かってゆく機能などありませんでした。
こうした従来の魚雷攻撃の限界を打破するため、魚雷に直接人間が乗って敵艦に向かってゆくという構想を、具現化させたものが回天です。
回天の計画は、ミッドウエイ海戦、続くガダルカナル島撤退など、旧日本軍が苦汁を舐めはじめることになる昭和18年の終わりごろ、現場や士官からのボトムアップによりもたらされたといいます。命名は、幕末の軍艦名にあやかったそうですが、「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」意味で用いていたのは、計画提案者の士官だそうです。
設計当初、軍令部は、回天乗員の脱出装置を持たせることを命じますが、構造的難題や急がされる開発に、現場から反対意見が生じ、設計から外されました。
ここで事実上初の、生きて帰ることのない特攻兵器が誕生しました。
そして、こののちの特攻兵器誕生のハードルを下げるきっかけになってしまった。と語る関係研究者もおられるようです。
大津島には、もともと従来型の九三式酸素魚雷の発射試験場があったため、昭和19年9月、回天訓練基地として選ばれ、開隊することとなりました。
搭乗員は、志願、募集によって構成されていました。海軍兵学校・機関学校から志願と人事で集められ、募集は、兵科予備学生・予備生徒、飛行予科練習生を対象に、「一撃必殺の危険な兵器」 的な言い回しで人間魚雷であることは伏せ、大津島開隊1月前に行われました。
実物の回天の前で真実を告げられ、「嫌なら遠慮なく申告しろ」という上官に、誰も「嫌だ」と言わなかった。。。というのは、ドラマの中で描かれますが、きっどには事実は分かりませんでした。
続きます。
文章ばかりになりました。すみません。
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