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この天を回らすために。。。大津島(4)

続きです。

大津島に回天訓練基地が開隊され、初めて集められた搭乗員は34名。終戦時までに訓練を受けたのは、(途中増設された、同県光基地などを含め)合計1375名といわれています。
大津島での訓練は、ここで書くまでもなく厳しいものであったようです。
操作は複雑で、海中に潜む危険と隣り合わせ。訓練中の殉職もありました。最大限に訓練機を回すため、整備は徹夜で行いました。
初めての回天出撃は、昭和19年11月8日になりました。航空機による特攻は、この少し前より始まっていたといわれます。
出撃地は西太平洋カロリン諸島ウルシー環礁、パラオ諸島コッスル水道と決定。徳山湾に碇泊させた3隻の伊号潜水艦が母艦となり、これに回天を搭載し、目的地まで運びます。
12名の搭乗員が母艦に乗り込み出撃。回天隊は皆、帰ることはありませんでした。

以降、終戦まで、グアム、硫黄島、沖縄などに出撃。
搭乗員106名(事故、自決、母艦の沈没などを含む)が戦死、平均年齢は20.9歳でした。 また、整備員たちを含む、作戦関係者を合わせると956名が戦死しました。

以上、ざっくりしすぎるとは思いますが回天について触れさせていただきました。

探訪を続けます。

高速船に同乗していた小学生の一団は、別方向へ分かれてゆきました。
島の西岸に立っているのは、きっどだけ(正確には、すり寄ってきた猫が1匹あり)になってしまいました。
目の前の湾は、いたって穏やかですが、当時は物々しかったでしょう。
きっどの郷里横須賀も海軍工廠がありました。鉄とコンクリによる錆色の世界が、ふとフラッシュバックしてまいります。

回天をより具体的に記すため、時系列を変えて、先に記念館の回天レプリカを載せたいと思います。
回天は、伊号潜水艦の後部甲板に4基ほど括り付け運ばれたそうです。
敵艦が碇泊艦か、航行艦で攻撃の段取りは異なるようですが、大体20~40Km手前で、回天は母艦と切はなされ、乗員は海中を目標へ近づけます。
回天記念館前のレプリカ

回天記念館前のレプリカ

途中、2km~0.5km手前で潜望鏡(水防眼鏡)による最後の確認をしたのち、携帯するストップウォッチを見ながら一気に突っ込みます。
操縦中は外の様子が見えないので、観測データで爆発命中までの秒数を算出しておきます。
ストップウォッチが、その時間を過ぎても何も起こらなければ失敗。
攻撃の成功については。。乗員であれば誰もそれを確認することはできなかったと考えられます。
右 水防眼鏡 このすぐ下に乗員席がある。

続きます。
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この天を回らすために。。。大津島(3)

続きです。

~「回天」の理解ありきで書き始めましたが、この時点でも、自身が回天について深く理解に及んでいると言い切れません。
辛うじて得た理解をさらに噛み砕きながら、回天について改めて記したいと思います。

なお、回天は、先の太平洋戦争における艦船攻撃の要、「魚雷」にその原点を持ちます。なので、その成り立ちについて綴ると遠大になるためその部分は省かせていただきます。
前述のごとく、拙く浅学な者が綴ります。なにとぞ、ご寛大にお願い申し上げます。~

人間魚雷 回天は、先の太平洋戦争において、日本海軍が実際に用いた特攻兵器です。
当時の魚雷は、今のように自動的に敵目標へ向かってゆく機能などありませんでした。
こうした従来の魚雷攻撃の限界を打破するため、魚雷に直接人間が乗って敵艦に向かってゆくという構想を、具現化させたものが回天です。
回天の計画は、ミッドウエイ海戦、続くガダルカナル島撤退など、旧日本軍が苦汁を舐めはじめることになる昭和18年の終わりごろ、現場や士官からのボトムアップによりもたらされたといいます。命名は、幕末の軍艦名にあやかったそうですが、「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」意味で用いていたのは、計画提案者の士官だそうです。
設計当初、軍令部は、回天乗員の脱出装置を持たせることを命じますが、構造的難題や急がされる開発に、現場から反対意見が生じ、設計から外されました。
ここで事実上初の、生きて帰ることのない特攻兵器が誕生しました。
そして、こののちの特攻兵器誕生のハードルを下げるきっかけになってしまった。と語る関係研究者もおられるようです。

大津島には、もともと従来型の九三式酸素魚雷の発射試験場があったため、昭和19年9月、回天訓練基地として選ばれ、開隊することとなりました。
搭乗員は、志願、募集によって構成されていました。海軍兵学校・機関学校から志願と人事で集められ、募集は、兵科予備学生・予備生徒、飛行予科練習生を対象に、「一撃必殺の危険な兵器」 的な言い回しで人間魚雷であることは伏せ、大津島開隊1月前に行われました。

実物の回天の前で真実を告げられ、「嫌なら遠慮なく申告しろ」という上官に、誰も「嫌だ」と言わなかった。。。というのは、ドラマの中で描かれますが、きっどには事実は分かりませんでした。

続きます。
文章ばかりになりました。すみません。

この天を回らすために。。。大津島(2)

続きです。

当日は穏やかな日よりとなりました。

早目にホテルをチェックアウトし、車で渡航船乗り場へ向かいました。

ところが、港につくや、ターミナルビル周辺が広範囲の工事中で、一体どこでどうすれば良いのか見当がつきません。
「これかな」と思しき桟橋がありましたので車を横付けすると、少し離れたチケット売り場の案内が掲示してありました。
目の前のビル改装を含め、ターミナル全体が新しくなりつつあるようです。
車を転回させ、案内の別棟に向かいました。

チケット売り場はすぐわかりましたが、車を置いて乗船する為の、駐車場の容量が少ないようで、すでに満車でした。
券売所で案内されたのは、港の向こう岸の駐車スペース。
どう見ても4~500mは離れていそうですが、やむをえません。置きに行きます。
早目に来ていて良かった。(゚´Д`゚)

券売所に戻ると、小学生の一団が整列していました。制服でしたので校外学習でしょう。同じ船に乗るのかもしれません。
乗客はそう多くはありませんでした。平日でしたので、トレッキング支度の乗客はきっど含めて数名。公務、営業、配達の方々が、お客の中心でした。
瀬戸内の暮らしになじみがありませんが、船便は、きっどの知る”バス”などと同じなのでしょう。

そうこうしているうち、乗船予定の高速船が桟橋に接岸しました。
定員150名、59総トンだそうで、なかなか速そうな船です。この後部甲板に上がりました。
さすが瀬戸内。山陰に比べて、海上でも暖かな感じで、まぶしいです。

定時出航。 途中、待望の海上からのコンビナートの眺めを堪能します。
ただ、まったりする間もなく、目的地の大津島馬島港へ入港。約20分の船旅でした。
馬島港は、回天見学コースの最寄港。
船はこの後、大津島の各港に寄りながら、徳山へ戻ってゆきます。

さて。時間に限りもあるので、早速回天の発射訓練施設に向かってみます。
大津島の南端は、馬島という島と繋がっていて、その接続部のくびれ一帯が、当時の回天基地だったようです。
くびれを渡ると瞬く間に反対側の海岸に出ます。
そこが、緩やかな入り江になっていて、前方の海上に突き出た、コンクリート製の何かの施設が見えました。

また、長くなりそうです。続かせていただきます。
回天。。。「人間魚雷・回天」 そのものにも、念のため次回より触れてみます。

拙いですが、ミニ写真をどうぞ。
徳山港 コンビナート群 海上より

大津島巡航 鼓海Ⅱ

大津島 馬島港

この天を回らすために。。。大津島(1)

こんばんは。ぶらすたーきっどです。

前回のプレ記事に続く形で綴ることにいたします。

戦争遺跡に触れる内容であると予告したうえで叙情的なタイトルをつけてしまいましたが、極力先入観や私情に走らない記事にしたいと考えています。
また、こういった記事に本当に拙いことを自覚しておりますので、至らない部分もあろうかと思いますが、ご寛容のほどお願い致します。

山口県周南市徳山を訪れたのは、昨年の晩秋でした。
瀬戸内に私用で向かう機会があったので、日程を伸ばして、ある島へ渡ることを思いたったのでした。

その島とは「回天記念館」のある「大津島」です。

大津島に渡るには、徳山の港から高速船かフェリーに乗船することになるので、前日の晩に徳山の駅近ホテルに入りました。
駅前エリアは港に接しており、ホテルから渡航船乗り場は目と鼻の先です。

ところで、徳山の港のもう一つの特色をご存じでしょうか?

周南市「日本11大工場夜景都市」の一つに認定され、鑑賞スポットの一つに、ここ徳山港があります。
特に、特殊ゴム生産世界一、石油ワックス、カセイソーダ、シリカの生産それぞれ日本一、など錚々たるコンビナートが、徳山港の眼前に展開しています。
まさに工場夜景マニア(むろん、きっどもその一人)垂涎の宿泊地なのですが、実は、慣れないレンタル業務用ワンボックスカーによる今日の長距離ドライブの疲労がピークで、どうにも夜の臨海公園まで出向く元気が出ません。
とりあえず、駅近くのテナントビルの地下にあるインドカレー屋で夕食を摂り、回復を狙います。
ところが、ちょっと一杯のお酒がドカンと効いてしまい、いよいよ、泣く泣く、夜景探訪を断念。
明朝の海上からの景色に期待することとなりました。

↓どのみちきっどの写真じゃお見せできません。上手な皆さんの写真をどうぞ
徳山港 工場夜景 :Google画像

さて、明日は、大津島渡航~見学ののち米子へ帰路を取らねばなりません。
それらを鑑みると、午前9時台の、徳山ー大津島(馬島)へ直行する高速船に乗るのがベストです。
コロナ禍によるダイヤの影響を心配していましたが、どうも大丈夫なようでした。
ホテルのチェックアウトを早めることにします。

コンビナート群の絢爛な明かりの中、徳山の街は静かに更けてゆきました。
続きます。

プレ記事:戦争遺跡と、流浪する筆

こんばんは、ぶらすたーきっどです。

プレ記事は、この行程を経て綴りたいことを整理し、本記事へ続く場として設けさせていただいています。

昨年、島根大学の学生の熱意が、山陰、美保関沖で発生した、ある史実に肉薄し、大きな成果をもたらしました。
ある史実とは昭和2年に発生した、海の八甲田とも呼ばれる海難事故、「美保関沖事件」。
その悲劇の象徴、「駆逐艦 蕨」の、海底での発見・撮影に成功したのでした。

きっども、数年前、この美保関沖事件をモチーフに絵画を作成し、顕彰護持会や新聞などで紹介されました。
山陰の風物を扱う画家として一つの役割を果たせたのかな。という、新たな感慨を覚えました
あの時はタイミングも良く、藤田嗣治、中村研一両雄の本物の戦記画が拝見出来たりと、心身ともに戦記画を描く準備を整えられた幸運もありました。

ところが、戦記画を描くにあたって、どうしても超えられない壁に気づきます。
「戦争を知らない」ということです。

なので、あの絵は現代絵画の手法に「逃げた」に等しかったと、後の正直な気持ちが訴えてきます。

知らないことに挑むことは、悪いことだと思いません。また、思想に左右されない現代人の目が、その史実を描く意味もあったと考えます。
ただ、当時の多くの人々が、絵に描かれないところで時代に翻弄されていたことを忘れてはならず、その聞こえない声を背に負って描いていたのかというと、どうしてもやり切れなかった思いが残ります

きっどの亡きお祖父さんは、戦時中は銃後、軍需工場を任されていました。
戦後は造船に携わり、特殊な製造機械を運転する技能から定年を延長して働いていました。
根っからの技術者で、昔語りをしないかわりに、物づくりへの執拗なこだわりが戦中の片鱗としてありました。
出来ない、造れないことが敵。 「やることはやった、しょうがない」などというチートな満足感は存在しないようでした。

きっどは、そこに、戦記画の筆の取り方があるのかなと考えました。
戦争の悲惨さや、当時の日本を比喩するような遠大な作品は元々創れないということです。
だって、知らないのですから。
たとえ当時の人々の声が聞こえたとしても、フィルターにかかった、恣意的な声かもしれません。
まずは見たものを、見たまま描く。見たものをそのまま描けないことが、具象作家にとっての敵ですから。

いろいろ戦争遺跡を見てみよう。見たものが素直に描けるようになったら、また山陰の戦記画に挑もう。

そう考えていた矢先、山口県の瀬戸内側に出かける用事が出来ました。

「そうだ、この機会に”あの島”へ行ってみよう。」

IMG_8824.jpg


本記事に続きます。

明けましておめでとうございます。


こんなブログですが、ご訪問頂き本当にありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

かたちの上ではブログ村などに参加しておりますが、集客のための工夫など何もせず、
「どうせ誰も見ないだろう、適当な日記でいいや」的なるモチベの元、続けているブログではあります。が、
それでも、ありがたく訪問くださる方々のため、やはり新年のご挨拶をさせていただきました。

ここは、誰の、何のためのブログだろう?
当初は明確な志を設定しておりましたが、移住者意識が薄れるごとにその維持は困難になりました。
移住者意識が遠のく代わりに、いかにこの地で安静に一生を終えるか。の意識が強まりました。
そのためには、後継者、人手不足問題。文化停滞問題。などの頭の痛い問題と向き合わなくてはなりません。
手を付けるべきはたくさんありますが、まずは自分を知るためのツールとしてこのブログを書いていることに気づきます。

誰かに話しかけているようで、実は少し未来の自分に向けているようにも感じます。
そもそも自分は何かができる存在なのか?
そんなことを自問しながら、本年も続けてゆくことになりそうです。

米子は、年越し寒波の影響を受けました!
米子市内 年越し寒波 2020-2021

ぶらすたーきっどでした。

迷路絵本作家による”復元時空”に唸る!(3)

続きです。

残念ながら、(というか、当然ながら)館内、写真NGとなっています。
それでも、この立体迷路だけは写真OKでしたので、拙いながらも掲載させていただきます。
香川元太郎の世界展 立体迷路

香川元太郎の世界展 立体迷路内 迷路絵「ヤマタノオロチ」
山陰ゆかりのヤマタノオロチがテーマの迷路絵


迷路内壁に香川先生の迷路絵が大写しになっています。立体迷路には迷わないものの、その迷路絵にいちいち「はまって」しまう仕掛けということです。
驚くのは、2階に展示されている原画を拝見した時です。原画はどれもほぼA3サイズほどですが、立体迷路内で1辺数メートルという壁画サイズに引き伸ばしても、クオリティが変わらないということです。

となると、きっどお目当ての城郭絵画の原図など、どうなってるのか!?
期待と困惑が去来します。

早速歴史考証イラストのコーナーに入室しました。
ずらりと、いわばお馴染みの香川テイストの歴史絵巻が広がっていました。
城郭絵画の精密さは心得えておりましたが、原画を見ると驚愕します。
お城の柱など「クレンザーでつけられた擦痕」に匹敵する細線で描かれているではありませんか!

お城の絵ばかりではありません。
様々な時代の日本を、上空から、まるでタイムマシンに乗って見学に来たかのような体験ができる、時代考証図が素晴らしいのです。
きっどが特に目を見張ったのが、移住前に暮らしていた鎌倉市の鳥観図。
鎌倉を象徴する、中世往時の姿を描いた鳥観図など、市街、河川、丘陵などを一望に配したなか、時代考証が生き生きと活写されています。

鎌倉市内でよく出くわした遺跡などが詳細に配されており、その遺跡同士どういう繋がりや意味合いがあったのか、よくわかります。
まさに時空間そのものの復元!このときばかりはグーグルアースなど安っぽく思えるほどです。

まったく素晴らしいものを拝見しました。
歴史考証関係の絵画は、まとめて見られる機会が少なく思いますので、歴史ファンならずとも、一度ご覧になられたらいかがでしょうか?
「アート」が持つ、深い可能性を感じることが出来ると思います。

図録がないとのことで今回のアート探訪には記念が残らず寂しいですが、代わりに城郭鳥観図の画集をゲットしました。
権利に考慮し、表紙+中身のチラ見せのみ、掲載いたします。
香川元太郎 日本の城 画集

香川元太郎の世界展は令和3年2月7日まで開催
↓詳しくは以下でも。
芦屋市立美術博物館HP;香川元太郎の世界展

↓香川元太郎先生、香川志織先生のHP
KAGAWA GALLERY

このとき、実は神戸大丸にも、御尊敬申し上げる洋画家先生の作品が来ていたので寄りました。
が、その記事はまたの機会に。

終わります。
プロフィール

ぶらすたーきっど

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~過疎をいいことに、好きに書いています~
こんなブログですが、良いご縁がありますように。

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