測地レジェンド伊能忠敬、米子に呆れる。(1)
こんばんは。ぶらすたーきっどです。
パース図という、毛色の違うお仕事を受け、少々忙殺の日々を過ごしておりました。
気づけば、半月近くブログ放置をやらかし。。。。
まったくお恥ずかしい限りです。
パース図というのは、建築・開発の現場でなくてはならない存在で、クライアント様の意図を汲み、関係者全員が共有できる完成イメージを描いたものです。
3D-CADが汎用となり、コンピューターが正確なパースを描ける時代ですが、味わいのある手書きのパースも、いまだ多く求められています。
過去記事のごとく、測量設計の現場にいたきっどとしては、パース図というものには心揺さぶられるものを感じます。
特に、地図や製図に関わりたかったので、時間的制約さえなければ、いつまでもこちょこちょ描いていたい絵画です。
なんというか、箱庭やジオラマ模型のような魅力があります。
開発などの実際の現場では、測地データを反映し、構造物が矛盾なくその空間にあるように見せたりと、大変な絵画の仕事です。
その構造物が、地形をリスペクトしたものであるなら、なおさら気を配って作画します。
さて。
地図製作や測量を志す際、日本人なら必ずその存在から多くを学ばざるを得ない、歴史上の人物がおります。
伊能忠敬です。
その、ドラマティックかつ驚愕を禁じ得ない人生と、また、その人となりについて、今更ここで記せるものではありません。
方法論ばかりでなく、測地というものが、いかに崇高で、危険で、魅惑的かを、この偉人がすべて教えてくれたと、きっどは思っています。
伊能忠敬は、寛政12年(1800)から、文化13年(1816)の間の、第二の人生すべてを、測量の仕事にかけました。
現在の千葉県香取市、佐原には、忠敬が前半生を過ごした旧宅が残されており、近くに記念館が建てられています。
そこがまだ合併前の佐原市だったころ、訪ねました。
運河が流れる景観保存地区で、旧家の並ぶ情景豊かな場所でした。
続きます。

今回の記事を思い至ったきっかけの 伊能忠敬研究会の記念誌。
次回ご紹介します。
パース図という、毛色の違うお仕事を受け、少々忙殺の日々を過ごしておりました。
気づけば、半月近くブログ放置をやらかし。。。。
まったくお恥ずかしい限りです。
パース図というのは、建築・開発の現場でなくてはならない存在で、クライアント様の意図を汲み、関係者全員が共有できる完成イメージを描いたものです。
3D-CADが汎用となり、コンピューターが正確なパースを描ける時代ですが、味わいのある手書きのパースも、いまだ多く求められています。
過去記事のごとく、測量設計の現場にいたきっどとしては、パース図というものには心揺さぶられるものを感じます。
特に、地図や製図に関わりたかったので、時間的制約さえなければ、いつまでもこちょこちょ描いていたい絵画です。
なんというか、箱庭やジオラマ模型のような魅力があります。
開発などの実際の現場では、測地データを反映し、構造物が矛盾なくその空間にあるように見せたりと、大変な絵画の仕事です。
その構造物が、地形をリスペクトしたものであるなら、なおさら気を配って作画します。
さて。
地図製作や測量を志す際、日本人なら必ずその存在から多くを学ばざるを得ない、歴史上の人物がおります。
伊能忠敬です。
その、ドラマティックかつ驚愕を禁じ得ない人生と、また、その人となりについて、今更ここで記せるものではありません。
方法論ばかりでなく、測地というものが、いかに崇高で、危険で、魅惑的かを、この偉人がすべて教えてくれたと、きっどは思っています。
伊能忠敬は、寛政12年(1800)から、文化13年(1816)の間の、第二の人生すべてを、測量の仕事にかけました。
現在の千葉県香取市、佐原には、忠敬が前半生を過ごした旧宅が残されており、近くに記念館が建てられています。
そこがまだ合併前の佐原市だったころ、訪ねました。
運河が流れる景観保存地区で、旧家の並ぶ情景豊かな場所でした。
続きます。

今回の記事を思い至ったきっかけの 伊能忠敬研究会の記念誌。
次回ご紹介します。
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