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ああ甘美なる「未確認!」(1)

「おの~れ、たまずさが お~んりょお~!!!
(゚Д|||)」


すみません。いまだ八犬伝が尾を引いておりまして。引き続き怪奇編へと繋がせていただくことにしました。

といっても、今回記したいのは、怨霊、呪いの類でなく、
「未確認飛行物体」の体験について。と考えています。
未確認飛行物体UFO については、いまさらここで考察を述べるべきものでもないです。
矢追純一の特番、アメリカのミステリードラマ、特報リサーチなどを、熱心に拝聴していた同世代の皆さまと何ら違った見解や知識を持つものではありません。
なので、こに記すものは世のUFOマニアにとって当然取るに足りないものになっちゃうかもしれません。新しい知見が無いことはあらかじめお伝えしますので、了承いただければ幸いです。

当ブログで怪奇編を扱うにあたり、いつか幼少の頃より悶々とため込んでいたものを記してみたい。と考えていました。
当時は、そんな話をしても、往々にして「ふ~ん」で終わってしまい、個人の小さな記録など無かったこと同然のような扱いで忘却されてしまいます。
ですが、今は、記せばちゃんと電子情報が残り続けてゆきますので、取るに足らない体験談でも、こうして残してゆく作業が出来るなんて感無量なんです。
(私はSNSはやらないのですが)ブログとか・・・すごい時代になりましたネ。

ところが、米子という地は、あまりオカルトを語れるネタが少なかったりします。
地元怪談もありますが、厳密には隣町を指すものであったり、人柱の話なども、それが祟るような話にはなりません。
おそらく、うまく伝えられていないことが原因で、その一つには、「過ぎてしまったことには触らない」市民性が挙げられます。新し好きで、お金をかけてまで古いものを伝えない体質が強くあります。文化財保護などの見地からは非常にまずいものなのですが、我々のような県外の新参移住者があっさり受け入れられたという恩恵はあります。

そんな米子ですが、きっどの明確な未確認飛行物体目撃は、実は米子移住後が初めて。
そういう意味でも、このブログに残してゆく必然を疑うことはありません。

あっと、、、こんなところで感慨にふけってはいけませんでした( ̄ω ̄;)

次回から、身近に起きた未確認飛行物体の体験をつづってまいります。

続きます。
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南総里見八犬伝 鳥取で散ったDNA(4)

続きです。

さて、幸いにも。。。と言って良いかどうかわかりませんが、忠義公は祟りを引き起こすようなこともなく、静かに倉吉の地を見守っておいでです。 信頼に足る人物であったことは間違いなく、八賢士の忠義(ちゅうぎ)に答え、いまも殿様らしく振舞われているのかもしれません。

倉吉市では、毎年、「倉吉せきがね里見まつり」を開催し、忠義公と八賢士を偲んでいます。
神事については関係者のみで行われ、続くステージイベントでは大変にぎわうようです。
毎年9月初旬の休日開催なので、きっどの繁盛期と重なり、いつも見逃すのですが、いつか参加したいと考えています。

さいごに、少しだけ写真を上げさせていただき、終わりたいと思います。

里見忠義菩提寺 大岳院
忠義菩提寺 大岳院 転封後はこの門前に屋敷を構えました。 白壁土蔵群という景観保存地区の一角にあります。

大岳院門前 武家屋敷跡 案内
大岳院門前の武家屋敷案内。 ただし、この屋敷の住人は、のちに鳥取藩へ移封した池田氏に仕える武家です。

大岳院 向拝
大岳院境内にて
大岳院境内

大岳院 里見家墓所
山門すぐ横の里見家墓所。 「八賢士」、叔父の「正木大膳」、家老「堀江能登守」も共に眠ります。

里見忠義屋敷跡

左 里見屋敷跡。 現在の区画ではピンとこないですが、倉吉区検察庁庁舎横、加茂神社の門前にもあたります。
右 屋敷跡から打吹城跡(倉吉城)を見上げる。忠義公は、城に住むことはなかったとされます。

終わります。
八犬伝がお好きな方は、ぜひ聖地巡りにいらしてください♪

↓そのほかの情報はこちらからでも
倉吉せきがね里見まつり ;公式HP
倉吉観光協会HP
里見氏大河ドラマ化実行委員会HP
ひなビタ ;倉吉市HP

南総里見八犬伝 鳥取で散ったDNA(3)

この半月は所属団体の活動やらなんやらで飛び石的に外出が続いてしまいました。
久しぶりの更新です。

記事を続かせていただきます。

さて、物語のさわりを終えたところで一旦空想の世界を離れ、鳥取でその生涯を終えることになった「里見忠義」に触れたいと思います。
忠義は、通説では、安房里見家の10代目頭首。この若き館山藩主は、活躍もこれからという慶長19年、大久保長安事件の連座という名目で、突然、幕府より滅封、領地替えという沙汰を受けます。
これはタイミング的に、徳川が大阪冬の陣を仕掛けるにあたり、身近な、しかも江戸湾入り口という要衝を陣取る外様大名の里見氏が、煙たく、そして危険な存在と感じたための謀略だったとみる向きもあるようです。
安房は没収、鹿島の替地として伯耆の国3万石を与えられ、同年秋、忠義は倉吉藩主として、今の鳥取県倉吉市へやってきました。

しかし、着任後3年ほどで新たな領主が移封したため、忠義は百人扶持の知行とされ、倉吉城下を離れてゆきます。
やがて、病に倒れた忠義は、元和8年、29歳の若さでこの世を去りました。
安房里見家は、ここで途絶えてしまいました。

忠義の死後、ずっと里見に忠臣を誓っていた8名の家臣が殉死しました。この8名も、忠義と同じ墓所に葬られ、忠義を守るかのごとく墓列が置かれております。
この8名の戒名には、忠義の戒名と同じ一文字の「賢」がいれられており、「八賢士」と呼ばれました。
また、千葉県館山城のふもとには「八遺臣」の墓所。というべきものがあり、「八賢士」の遺骨が持ち帰られているという口伝もあるようです。
これらのことを「馬琴」が知っていたかどうかは定かではないようですが、「八犬伝」のモデルではないと言い張るほうがもはや「不自然」といえましょう。

なんとも不条理で、やるせない思いが錯綜します。
忠義が館山藩主についたのは10歳のころだったといいます。
藩政は家臣のサポートを受けつつ執っていたのでしょう。ですが、これからという20歳そこそこで政治事件に巻き込まれ、首都圏から山陰へ追放される形です。
多くの家臣は離れてゆきますが、新天地で頑張ろうという忠義の姿も、神殿修造への協力などからうかがえます。
それなのに、不遇続きのうえ病死してしまうとは。。。
目の奥が熱くなるのを禁じえないのです。

続きます。次回は、倉吉の、忠義ゆかりの写真などお見せできればと思います。
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