FC2ブログ

スローライフって何だろ?無人島生活はやだな。

先日、鳥取東部から兵庫県に入り、取材のため中国山地の美景を色々見てきました。

今回これがメインの記事ではないのですが、兵庫県宍粟市の渓谷など周り、大変よい場所を見つけたと感激いたしました。

帰って早速ネット等で取材成果などをまとめていると、ふと、リノベーション住宅の情報が目に留まりました。

「兵庫県宍粟市の6DK! 土間つき、縁側つき。そこから田や山を望み~遮るものなし。庭石を配したいじれる庭付きで、お値段
280万円!! のんびりスローライフを満喫!」 だって!?

えええっ!
ちょっと、、、すばらし過ぎませんか!?

恐らく、元は旧家だったのでしょう。多少、要追加リフォームとなっていますが、現況写真は見事な近代化が施されています。

すっ、住みたい!。。。頑張れば買える。。。買える。。。買える。。。
憧れのスローライフ。。。スローライフ。。。スローライフ。。。

いやいや!!(((ノ´□`)ノ。冷静になりましょう。

きっどが関東から移る際、同じような夢想を抱いて米子へやって来ました。
ここを足がかりに、スローな暮らしにシフトしてゆくつもりでしたが、実際は、人材・後継者不足のコミューンの中にあって、賃金も少なく、中央に住んでいたころの倍は働かなくてはなりません。
一体全体、どうしたらスローライフなど送れるのか?などと考えることすら忙殺されてしまいます。

ただ、先般記した無人島記ではないですが、何の誰とも接触のない、ひたすら閑散とした毎日が過ごせるのか?と考えると、それも自信がありません。
 「それこそスローライフさ!」と言えるほど達観もできていないので、やはり「緩・急」のある暮らしのほうが、「緩」を、より味わうことができて良いでしょうね。 そういうことでは「緩」の豊かさは山陰で手に入りましたので、移住の大きな恵みだったと思います。

最終的には憧れますよね。。。大草原の一軒家。みたいな。。
でもなんで、憧れるのだろ? 
ここまで書いても、上手く説明できない事案のひとつですよね(;^_^A ?
スポンサーサイト



脳内にコンピューターチップ。 別の恐怖が (´ρ`)

キャンペーン記事が続いたので、くだらないつれづれを書きたくなりました。

都市伝説番組などで、やがて訪れるであろう機械と人類との融合の話題について、
インターネット接続用端末などを、脳の中に直接埋め込むことによる、人類の管理操作を危惧する都市伝説テラーがおられます。

人体に直接配線を施す気持ち悪さもさることながら、記憶や感情までが、第3者によってハッキングされるかもしれないおぞましさが伝わります。

ですけどね~。

みなさん、スマホなどのコマーシャルのように、本当にあのようにスイスイ物事(情報の処理)が運んでいるのでしょうか??

きっどなどは、肝心なときに端末が動かない・誤作動する・バッテリーが上がるなど、ITなんていまだ好きではないのです。
なので、今の雰囲気のままこんなもの脳に入れたら、たちまち、、、

ギガがたりなくなって速度制限でフリーズ。
CMばかり流れるアプリで視界不良。
メモリー不足でフリーズ。
動画データが重くてフリーズ。

みたいに、フリーズばっかりしていて、街中の人たちがカクカク動くような姿しか想像できません。

これらすべてが、無料で、早く、安全に処理されるようなネットワーク技術が確立されるまで、まだまだ年月がかかりそうですし、アニメ「風の名はアムネジア」みたいに、脳の成長を促す技術が先行することにでもなれば、配線つき脳みそが本当に必要なのか考えてしまいます。

むしろ、きっどが恐怖するのは、この「風の名はアムネジア」で原始化してしまう人々のような姿です。
情報端末に、学習や記憶を完全に依存するようになれば、それが停止した場合、欲望・本能だけを命ずる脳しか残らないのではないか?
なんて考えます。
ネットなどがまだ普及のないころのアニメですが、今思うと、情報通信神話の怪しげな部分をズバリ突いていた作品のようにも思えます。

それにしてもソフィアは美人だな~(〃'∇'〃)

原作は、菊池秀行の小説!「風の名はアムネジア」↓

松江、美保関に眠る、鳥島漂流民の雄(2)

続きます。

ということで、仏谷寺へのお参りは以前済ませていたのですが、今回ブログに書かせていただくご報告もかね、あらためて仏谷寺へお参りに行くことにしました。
どんなに忙しくても、このへんは疎かに出来ない性分ではあります。

美保関は、とても好きな場所です。

観光ガイドなどで語りつくされているのでPR記事は書きませんが、
「神話にゆかりのある神社」。 「古き良き時代の町並み」。
「道ばたで香るイカ焼き」。 「漁船」。 「古刹」。
そして少し足を伸ばせば、「ファンタジックな灯台」と、「その中で日本海を眺めながら頂くコーヒー」。
そんな、きっどの全身が喜んでしまう、極上の半日が得られる場所でもあります。

仏谷寺は、美保関漁港に接する町の中心にあります。情緒たっぷりの青石畳の小路を進み、山門をくぐります。
港にある寺はだいたい海と集落を見下ろす場所にありますが、ここの本殿は町家に溶け込んでいます。

実は、清蔵さんのお墓は独立しておらず、ご一族の墓碑があるのみなので、個人としてのお参りは控えました。
ご本尊に、此度のことを報告し、お守りくださるよう挨拶しました。

港に戻ると、美保湾越しに大山が見えました。
生還の後、ここで過ごした清蔵さんも、大山を眺めていたでしょう。
海から直接山体がせりあがる独特な大山の地形ですが、絶海の孤島をほうふつさせるように見えなくもありません。
鳥島の形容を巧みに伝えた清蔵さんですが、彼の目にはどのように映っていたのでしょうか。。。

少年の頃、胸、熱くした物語と、この地が繋がっている。。。その実感に再び胸が熱くなるのでした。

ミニ写真ですが、美保関をご覧下さい!
仏谷寺 縁起 青石畳
仏谷寺本殿 ・ 縁起 ・ 青石畳

美保関漁港と大山 美保神社
美保関漁港と大山 ・ 美保神社

きっどの鳥島漂流民墓参の記録、残すところ、無人島長平さんを残すのみとなりました。
が、ここでインターバル頂きます。
何せ昔のことでもあり、ネガフィルムの記録しかないので、ひょっとしたら纏まらないかもしれません。
すこし頭を冷してから記したいと思います。

終わります。

松江、美保関に眠る、鳥島漂流民の雄(1)

続きますが、タイトルと、カテ「旅のこと」→「郷土のこと」。と振り直しました。

「米屋清蔵」さんは、前出の通り、久七さんらと共に鳥島へ漂着した11名の中にありました。
水主の役職で、当時の年齢は25歳。メンバーの中では中堅で、最も活動的な若者の一人だったのではないでしょうか。

特筆すべきは、彼の聡明さ。
生還の後、この体験談は、いろいろな形で後世に残されてゆくのですが、主に学者達が談話を整理しながらまとめるなかで、清蔵さんの語りは、実に的確だったそうです。体験を人に伝える彼の表現力や語彙力は、学者たちの前にあってもじつに堂々としたものであったことが伺えるそうです。
また、脱出船建造のアイデアはいつ生まれたか。の記述については、様々な言い分がある中、志布志船員漂着の際、持ち込んだ大工道具を見るなり「これで船が作れる」。と真っ先に言ったのが清蔵さんだったとも言われています。
(ただ、当時の誰もがそれを望んでいたこともあり、各人の談話の中であとさきを競わせるのは無意味かもしれませんが。)

鉄の不足から、脱出船建造が休止に追い込まれた際、これを打破に導いたのも清蔵さんでした。
食料採取に海に出かけた際、奇妙に突き出たものが磯から顔を出しているのに気がつきます。
泳いでいって確認したところ、古い難破船の錨だと分かりました。
苦労して岩をどけ、十分な鉄塊だったと分かったときはどんなにか嬉しかったことでしょう。

こうして、清蔵さんは故郷に生還しました。
生還後の足取りの記録があるのも(聞き取りした学者たちと、しっかり交流した)清蔵さんらしいと感じます。
漂流のトラウマから、給金のよい廻船には戻らなかったそうです。美保関で渡し等をしていたそうです。

このように、生還後の記録が残る漂流民は少ないなか、清蔵さんの菩提寺ははっきりしていました。
美保関の港町にある古刹 「仏谷寺」 なのでした。

美保関 仏谷寺 清蔵さんの菩提寺
仏谷寺 山門

続かせていただきます。

※ 資料引用は、~伊豆下田に眠る鳥島漂流民の雄(1)~記載の書籍などから行なっています。
ブログ用に噛み砕いております。 未熟な読解による誤用があるかもしれません。その責はきっどにございます。
※ 18世紀の随筆「坐臥記」及び、当時のインタビューに基づく文書「無人島記」など、清蔵さんに興味のある方は、ぜひご覧ください。

伊豆、下田に眠る、鳥島漂流民の雄(4)

続きます。

久七さんは、1788年1月(当時42歳)、10名の仲間と共に、大阪の回漕船へ楫取という要職で乗船しました。
江戸発仙台行き。
途中、犬吠崎沖で嵐に遭遇。一端小笠原まで流されたという記述も残るようですが、53日の後、最終的に、長平が孤独に暮らす鳥島へ漂着します。
1790年、志布志船が漂着の後、脱出船の建造が具現化してゆきますが、造船の要、「船釘」の鍛冶製造を担ったのが久七さんだったと言われています。
彼の生家の隣は鍛冶屋であり、その技法を目で覚えていたそうです。
フイゴを再現し古釘を溶かし直す。足りなくなれば難破船の錨を海中から引き上げ、釘に打ち直す。
これら、流木を船の形に組み上げる要を、久七さんが担ったのです。
もし、久七さんが漂着していなかったら、かの漂流民達には更なる試練が待っていたかもしれません。。

さて、故郷へ帰った久七さんの姿が、伝承を主とし、須崎に残っています。
久七さんは、無人島から帰った後、故郷では人目をはばかるように暮らしました。
過酷な島生活と皮膚の病で、見た目が変容していたためとも、普通の暮らしに適応できなかったとも伝えられます。
海辺の洞窟にこもり、仲間を弔う経を読みながら亡くなったそうです。

皮膚の病が治るよう久七さんにお参りし、治ったら小砂利を奉納する慣わしのようです。
きっども皮膚が弱く、近所にかかりつけ医を持ちますので、いずれまたお参りに来る機会が持てると思いました。

久七さんが暮らした洞窟は「念仏穴」と名付けられ、半島西岸、下田湾に面してあるそうです。
が、整備海岸でなく、嵐の翌日。
時間も限られるため見学は控えました。(オリジナルの洞窟は、すでに崩落で失われたそうです)
しかしこれで良かったのかもしれません。
きっどの胸には、晩年念仏に明け暮れた久七さんの姿より、無人島で困難に立ち向かった雄雄しい姿が、改めて強く刻まれたのでした。

さあ。

このブログは、備忘録をかね山陰の文物を記す場としても活用してきました。
お察しの通り、この鳥島無人島記も立派に山陰と縁を持つ物語です。
先に、釘を作るために海から錨を引き上げるくだりを記しました。
久七さんの朋輩・「清蔵さん」は、錨のサルベージに多大な貢献をなしました。
生まれは現在の島根県松江市美保関町、菩提寺も同所に所在しているのです。

続きます。

伊豆、下田に眠る、鳥島漂流民の雄(3)

時系列が錯綜しましたが、関東入り2日目にして、きっどは、宿から下田へ急行することに決めたのでした。
強制的に空き時間を作りましたが、何とかなるものです。
電車移動にしていたら予約の取り直しなどでひと手間かかるところでしたが、レンタカーの機動力が助けとなりました。

本日の伊豆は見事な晴天。伊豆諸島がずらりと沖合いに並んでいるのが見えました。
道中、倒壊した樹木や、崩れた土砂の片づけ工事が散見されました。
予定どおり行動していたら、まともに嵐に巻き込まれ、本当に墓参どころではなかったかもしれません。

下田湾を挟んだ西の半島方向に、車を進めます。 いよいよ、久七さんの故郷、須崎です。
半島の高台の道を進み、やがて海岸へ向け下ります。
防波堤が行く手に現れたところが、須崎漁港。 車はここまでです。

公園のPで降車。地図のイメージどおり、漁港を見下ろす斜面に、旭洞院の大屋根が見えていました。

ここから、集落の路地を歩いて登り、山門へ。  「旭洞院」到着です。
住職は兼任のはずで、寺務所は閉じています。 さすがにお墓の位置までは資料になく、もし墓地で迷ったら、総当り戦は覚悟しておきます。
ところが、向って左手の墓地への登り口に、ちょっと目立つ墓碑があるのに気づきました。
あぁ!あれこそ資料でみた、久七さんの墓碑! とうとう本当に到着しました。
まずは本堂でお参り。 そして、久七さんのお墓に手を合わせます。
墓石は、まるでお坊さんのそれのごとく卵型。 小砂利が供えられており、脇の石板に銘文が刻んであります。

純粋な墓参なので、近接写真は遠慮しました。石碑は少し草をどけ、撮影させていただきました。

伊豆 下田 旭洞院 村松久七の墓

伊豆 下田 旭洞院 村松久七の墓 碑文

さて、次回から、久七さんの存在が鳥島脱出をどう支えたか。
また、きっどの住まう山陰と鳥島漂流民の意外な縁、無人島長平さんの墓参についても記してゆくつもりです。
長くなりますね。
でもやっとまとめて記すことが出来て嬉しくもあります。

続きます。
プロフィール

ぶらすたーきっど

Author:ぶらすたーきっど
FC2ブログへようこそ!
~過疎をいいことに、好きに書いています~
こんなブログですが、良いご縁がありますように。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2プロフ
いらしたかた
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
地域情報
1865位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
中国地方
144位
アクセスランキングを見る>>
カレンダー
06 | 2019/07 | 08
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

フリーエリア
押して応援してやってください!
フリーエリア
ジャンル追加致しました。こちらでも応援いただければ嬉しいです!