『新・風景論』を読んで。
『新・風景論-哲学的考察』 〈清水真木 著〉を読みました。
写真、絵画指南のための本でなく、文字ばかりの、しかも「哲学」という主眼から「風景」が書かれた本は珍しいかもと、読んでみました。
はあ~。。いやもう難しいのなんの。。。ヽ( ̄д ̄;)
きっどの理解力では、結局、内容を取りまとめることが出来ませんでした。。
ただ、哲学から見た風景の捉え方というものと、風景画作家から見た風景の捉え方との「齟齬」みたいなものを味わい、おつむに電気ショックをあたえるには格好だったかも知れません。
人がステレオタイプ的に考える「美しい風景」とは、そもそもの話、写真のない時代の絵画が先駆であったそうです。
風景探求の学者が出現し、風光明媚な土地へきて、わざわざ額縁越しに景色を見るような器具を用いて鑑賞したそうです。
その、「切り取る行為あって」の風景に、哲学者は異論を投じるのです。
額縁の中だけでまとまって、テーマ的に統一されたであろう見世物的な風景。で、まずくくりを設け、ではその枠を超えて風景を考えてみませんか?という論調には、その先にある「地平」(著者も、同語の表現を用いていましたが)に何が現れるのか・・・ロマンを感じずにはいられません。
さあ。読後のきっどに、なにか知的変革が生じましたでしょうか?
まあ、正直分かりません(○゚ω゚)
きっどは、そもそも論で断ぜられる風景画を描く身ですので、その枠を超えた地平に想いを巡らせるなら、歴史や地理と言った背景などです。それらを暗示させる表現も忍ばせますので、結局は著者が言う「箱庭的」風景にはなってしまいます。
では、自身の視覚に拠らない風景を描くとして、抽象や心象という表現を選択するとしても、描く側の心地良さは取り残されます。
まさに堂々巡りの難問同。哲学の術中にはまってしまいます。
ただ、そうして目前の風景に深化を望み、しかも風光明媚で構図バッチリでも、描けないものは描けない時があります。
きっどの場合、「この風景を描きたい」となるには動機が要ります。
それは、哲学とは相容れないスピリチュアルな動機 「描くように、何かに言われている。」 ことです。
それまでガスっていた山容が急に晴れた。だとか、林の樹木に一点だけ光が当たった。だとか、山道でなぜか間違えて辿り着いた場所だった。とか、筆を握らずにはおれない瞬間がなぜかやってきます。
神様の啓示、などと書くと多少の語弊がありますが、それこそが、きっどにとって額縁を越えた風景の地平を見る瞬間かもしれない。と気付けたのは、読後、最も幸いなことでした。
哲学という難題に、スピリチュアルで返す。
きっどの浅はかな処世術全開です。(゚∀゚)
↓風景に一味違う感慨を持たせるお勧めの一冊!
『新・風景論-哲学的考察』 清水真木 著
写真、絵画指南のための本でなく、文字ばかりの、しかも「哲学」という主眼から「風景」が書かれた本は珍しいかもと、読んでみました。
はあ~。。いやもう難しいのなんの。。。ヽ( ̄д ̄;)
きっどの理解力では、結局、内容を取りまとめることが出来ませんでした。。
ただ、哲学から見た風景の捉え方というものと、風景画作家から見た風景の捉え方との「齟齬」みたいなものを味わい、おつむに電気ショックをあたえるには格好だったかも知れません。
人がステレオタイプ的に考える「美しい風景」とは、そもそもの話、写真のない時代の絵画が先駆であったそうです。
風景探求の学者が出現し、風光明媚な土地へきて、わざわざ額縁越しに景色を見るような器具を用いて鑑賞したそうです。
その、「切り取る行為あって」の風景に、哲学者は異論を投じるのです。
額縁の中だけでまとまって、テーマ的に統一されたであろう見世物的な風景。で、まずくくりを設け、ではその枠を超えて風景を考えてみませんか?という論調には、その先にある「地平」(著者も、同語の表現を用いていましたが)に何が現れるのか・・・ロマンを感じずにはいられません。
さあ。読後のきっどに、なにか知的変革が生じましたでしょうか?
まあ、正直分かりません(○゚ω゚)
きっどは、そもそも論で断ぜられる風景画を描く身ですので、その枠を超えた地平に想いを巡らせるなら、歴史や地理と言った背景などです。それらを暗示させる表現も忍ばせますので、結局は著者が言う「箱庭的」風景にはなってしまいます。
では、自身の視覚に拠らない風景を描くとして、抽象や心象という表現を選択するとしても、描く側の心地良さは取り残されます。
まさに堂々巡りの難問同。哲学の術中にはまってしまいます。
ただ、そうして目前の風景に深化を望み、しかも風光明媚で構図バッチリでも、描けないものは描けない時があります。
きっどの場合、「この風景を描きたい」となるには動機が要ります。
それは、哲学とは相容れないスピリチュアルな動機 「描くように、何かに言われている。」 ことです。
それまでガスっていた山容が急に晴れた。だとか、林の樹木に一点だけ光が当たった。だとか、山道でなぜか間違えて辿り着いた場所だった。とか、筆を握らずにはおれない瞬間がなぜかやってきます。
神様の啓示、などと書くと多少の語弊がありますが、それこそが、きっどにとって額縁を越えた風景の地平を見る瞬間かもしれない。と気付けたのは、読後、最も幸いなことでした。
哲学という難題に、スピリチュアルで返す。
きっどの浅はかな処世術全開です。(゚∀゚)
↓風景に一味違う感慨を持たせるお勧めの一冊!
『新・風景論-哲学的考察』 清水真木 著
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